そもそもオタクとはなにか。
オタクとは、自分の好きな事柄や興味のある分野に傾倒しすぎる人への呼称
ニコニコ大百科から引用。
つまり、アニメオタクはアニメばかりに興味を持ち偏ってることになるのだが今の時代そのような人間はいるのだろうか?
オタク御用達SNSのTwitterを見ているとこの定義に当てはまる人間の方が少ない気がする。確かな証拠はないが。
ではオタクというのは一体なんなのか。哲学的な話になるが、今回のテーマの「オタクがなぜ嫌われるのか」を考えるうえで重要なことである。
まずTwitterにいる現代のオタク達の特徴について見ていかなければならない。
まずオタクの特徴の一つとして「自分たちはオタクだ」と思っていることである。
よく言われているオタク構文の一つで「彼女いるけど俺オタクだし」というのがあるように、「自分はオタク」という自負を持っている。
なぜ彼らは自分のことをオタクだというのか?
これから考察していく事だがオタクというのが世間から白い目で見られている存在であるのにそれを自称する行為になんの意味があるのだろうか?
僕はオタクがオタクだと自称するのは何か理由があると推察し、またそれがなんなのか特定しようと思う。
オタクがオタクだと自称するのは「オタク」という概念が持つ性質が関係している。
なぜオタクと名乗るのか。それはオタクと名乗ることにより他のオタクと繋がることができるからと思う。
これは「オタク」という概念が共同体意識を与える性質を持っているのだと私は思う。
この共同体意識がオタク達の無意識の中でつながりSNSのコミュニティ形成にも影響している。
例えば、『チノ騎士団』というグループがあると仮定する。
チノちゃん好きが集まる団体なわけだが、「チノが好き」と世間に発信していかなければ入団できないし、また発信することがその団の活動なわけである。
バッグにチノ缶バッチをたくさんつけたりする行為もまた同様。
「ファッション」という自己主張でオタクをアピールすること、それはオタク同士の繋がりの強さをアピールする目的でもあり、オタクを自負する事により世間からの視線も気にしない強い意志をビジュアル化するための目的の二つからきている。
キモいと扱われる「オタク」というものを名乗るため、世間から偏見の目で見られるものを名乗るには強い意思が必要である。
しかし、全てのオタクが当てはまる訳ではない。
むしろオタクというものが増えすぎて(ネット&スマホの普及によりいつでも深夜アニメを見ることはできるし、割愛して話すがアニメがわかりやすいものになりアニメを見る事に前提知識など要らずに楽に見れるため誰もが見れる作品だらけになったのもオタク的なものが増えたのも一つ。詳しく書くとアレだが考察する文化が廃れ共感する文化の流れになったためわかりやすいものしか売れない世の中になった。なぜ共感するものが流行るのかは色んな理由があるが一番はSNSの影響。このことはいつか書く)
話を戻すが、オタクがオタクと名乗るには強い意志がいるといったがそんな強い意志を持ったオタクなんて絶滅危惧種のようなものであり、殆どのオタクは弱い意志である。
だからオタクは人権主張し始めたのだ。
一般人や世間からズレた位置にいたのに今のオタクはそのズレをなくそうとしている。
「オタクを馬鹿にしないでください」「オタクは〜」「オタクでも彼女は〜」
それならオタクはオタクと名乗らなければいいのだがそういうわけにもいかない。なぜならさっきも言ったように「オタク」がもつ共同体意識で他のオタクと繋がれているのに、その仲間意識も失うからだ。
だから「オタク」から抜け出すということはしない。また弱い意志を隠すために「イキリ」が生じる。
「俺はキリトに似ている」というイキリをするのも、オタクというつながりを断ちたくないのでオタクと名乗るが意志が弱いため人権を主張するも弱いことは認めたくないのでイキリだす。
ここまではオタクの中にある「オタク」というものの話だがここから先は世間からのオタクという認識の話なる。
一般人とオタク(自称)では『オタク』という概念に対する認識がズレているように感じる。
そしてそのズレから「オタク」が嫌われている原因につながってくるのだろうか。
オタクが嫌われる要因についてはまぁ色々あるけど、容姿が酷いとか発言がキモいとかロリコンだからとかはミクロ的な話であって個人の問題であり、オタク全員が容姿が酷いからとかに結びつけるにはいくらなんでも無理がある。
嫌われるのは一般人からオタクという概念にキモいというマイナスイメージが付着しているからだと推測する。
なぜ、オタク=キモいというのに至ったか。
これは典型的な日本のレッテル貼り文化の問題と昔のオタクの在り方に関係しているだろう。
①レッテル貼り文化
レッテル貼りとは、ある人や物事をなんらかの一言・名称であらわすこと、偏見に基づき勝手に決められることが多いとされる。 その人の性格や考え方などから、独断や偏見で決まった型に収めること。 例えば、昼間にSNSに書き込みした人を「ニート」と呼んだりする行為をレッテル貼りという。
どっかの記事から引用。
日本のネット空間においてこのレッテル貼り文化は多く見られる。(レッテル貼り文化は日本だけの問題ではないが)
例えば、陰キャ、陽キャのこの二つの言葉は間違いなく偏見で使われる。
そもそもインキャの定義とはなんなのか?
あまりにも多義語で抽象的に使われすぎて、誰もが示せる明確な定義がわからないことになっている。
にもかかわらず使っている。
これは完全にインキャというマイナスイメージを持っているから使っているという話で日本語自体の性質である「ハイコンテクスト」な使われ方である。わかりやすく言うと「尊い」という語彙力ないオタクが使ってる言葉があるのだが、「尊い」の意味は?と聞かれると答えられるオタクはほとんどいない。「尊い」という言葉にプラスなイメージがあるからなんとなく使っているってだけの話。
「コンテクスト」とはコミュニケーションの基盤である
「言語・共通の知識・体験・価値観・ロジック・嗜好性」などのことです。
とりわけ日本では、
コンテクストが主に共有時間や共有体験に基づいて形成される傾向が強く、
「同じ釜のメシを食った」仲間同士ではツーカーで気持ちが通じ合うことになります。
ところがその環境が整わないと、今度は一転してコミュニケーションが滞ってしまいます。
このことから、日本においては、
「コミュニケーションの成否は会話ではなく共有するコンテクストの量による」ことと、
「話し手の能力よりも聞き手の能力によるところが大きい」ことがわかります。
引用。
「尊い」の意味がわからないのに通じ会うのにも納得できる。
話をレッテル貼りに戻そう。
またこのレッテル貼り文化は別にキモオタ同士の中だけではない。
例えば、政治。
「右翼」「左翼」が当てはまる。
そもそも右翼とか左翼の定義は?それすらもわからず、勝手に自分は右翼と思い込み、反対意見に対して「左翼だ!」と批判して終わる。
左翼側もそう「ネトウヨだ!」という批判して終わる。どちらもレッテル貼りしかしてないし建設的な議論をしない。
このレッテル貼り文化は非常に政治の足を引っ張る。特にノンポリ層などはますます政治に対する考え方を変える。離れていく。
右翼、左翼の認識ができてないのになぜすぐ決めつけるのかこれは広い曖昧で抽象的なカテゴリーとして捉えているから。両者ともに。
「右翼、ネトウヨ」= レイシスト、保守、安部サポ、現政権支持者、愛国主義者、軍国主義者、歴史修正主義者、排外主義者、バカ etc
改革派、リベラル、理想主義、人権主義、現政権反対派、陰謀論者、在日、反日、反体制主義者、平和主義者、バカ、etc
このようなレッテル貼りが行われている。
というか矛盾してる箇所もある。
政権支持=右翼ではないとして、政権反対も必ず左翼とは限らないのに政権反対は左翼とレッテル貼りされる。
このレッテル貼り文化の問題点は議論が途切れる、もしくは建設的ではなくなってしまうことにつながる。反対意見を左翼or右翼と定めた瞬間に思考停止が起こりひたすら相手の発言を聞かなくなる。
自称右翼側は「左翼=馬鹿」、自称左翼側は「右翼=馬鹿」。
反対意見に対して「君の言ってることはよくわからんけど反対するってことは左翼or右翼なんでしょ?馬鹿じゃん。ハイ終わり」
左翼or右翼のレッテル貼りをし意見を聞かない。もしくは全否定して来ようとする。「馬鹿の左翼or右翼なんだからこいつらの意見は絶対に間違っている!もし間違いじゃないことを認めてしまったら自分の立場のアイデンティティが崩壊する!だから否定するんだ!」
これが大半の認識であると僕は思っている。ネットの議論を見ていると。
また自分の意見を持たない。必ず何かの引用からの発言。別にこれは否定するつもりはない、引用しても構わない。しかし発言に対する責任を持とうということだ。これは政治家たちにも言えるし、ネット言論の人たちにも言える。(まぁポジショントークであろうが)
例えば、現政権に対する批判。これは無責任な批判が多い。アベノミクスを完全に否定することは難しい、というか一概に言えることではないのだけど政治発言に対する責任がないため簡単に否定しているのだ。
さらにこのレッテル貼り文化というか思い込みは福島県産の野菜などもそう。
同じ値段で同じ野菜が置いてあって福島県産と他県産だったら他県産を選ぶという人は多い。
検査して異常がないものが市場に出回るのに
なんとなく危険そう。という勝手な判断で決めていく。
世間から見ればオタクは福島県産の野菜なのかもしれない。
余談だがこのレッテル貼り文化は人間の本能的な部分でもある。
例えば、分かれ道があって進まざる得ない時に右は危険そう、左は安全そうという第六感か何かで勝手に危険察知した。この危機察知能力は生物が自然を生きていく上で必要なものであり、人間という生き物はこの能力が他の動物よりも高いおかげで生き延びてこれたのではないだろうか?現代でもその名残がこのレッテル貼り文化を作り出したのではないかと思う。
話をオタクに戻そう。
まずオタクがキモいとされる理由だが…
いつか後編で書く