「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」
このフレーズは有名だ。知っている人も多いだろう。
「檸檬」などで有名だろう。
米津ナンチャラのことではない。
青空文庫で読めるので読んでほしい。
詩的で難解だが。
桜の美しさ、神秘さに恐怖や不安を感じ憂鬱になったことに、屍体が埋まっているからというアンカーを示し、憂鬱を乗り越えたという話だろう。多分間違っているかもしれないが。死と生は表裏一体であるとか。
人が不安や憂鬱を感じる時、それはぼんやりとしたものだろう。
形がないということだが。
だから、それをはっきりとさせることで、解消できる、
とは言っても、不安の原因ははっきりできないものだらけだ。
将来、他人、自分。
はっきりできない不確実性があるからこそ楽しい未来も思い浮かべられるのだろうけど。
人は生存本能的に最悪の結果を考えるようなバイアスがあるのだ。
この溪間ではなにも俺をよろこばすものはない。
鶯や四十雀も、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んでくる。おまえは 腋の下を拭いているね。冷汗が出るのか。それは俺も同じことだ。何もそれを不愉快がることはない。べたべたとまるで精液のようだと思ってごらん。それで俺達の憂鬱は完成するのだ ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている! いったいどこから浮かんで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。 今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする。