三月生まれの生存戦略

Twitterで言えないこと書きます。3月生まれで苦しむ子羊たちの先導者になります。

大学入学共通試験とかいうゴミ

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https://dot.asahi.com/amp/dot/2019101800113.html?fbclid=IwAR3P9rrJT6T8AWeEKIfvJnbkIhpMsRiJ9HCcOQz7kf8q0wwR36JPyrbDzQU&__twitter_impression=true

 

彼の意見に基本的に賛成の立場である。

論駁するつもりはないが、一つ気になったのは

『英語の読み書き重視の風潮を変えたければ、大学入試からではなく、教育現場から変えるのがスジです。』

 

殆どの高校生が英語を学ぶ理由が外国人とコミュニーケーションを取るためではなく試験を突破するために学んでいる。教師もそれに合わせている。試験を変えねば教育現場も変わらないだろう。

 

と思ったが、ウチの底辺高校は試験のためではないくせに英語の教え方はゴミだったな。英検のためだったのかもしれないが。。。(英検は強制的に受けさせられた)

ちなみに、高校でセンター試験を受け一般受験したのは生徒300人中僕と隣のクラスの女子の二人だけです。あとは推薦で行きました。

推薦の奴らがゴミな理由は一般受験勢の邪魔をしてくるからだ。推薦は勉強しないとかでなく。。。

特に試験が終わってからの我ら一般勢は追い込みの時期で昼休みも勉強してんのに奴らは基本邪魔してくる。俺がヤンキーみたく「そーでもねぇーぞ!」と机を蹴り飛ばすくらいのことをすれば黙ったかもしれない。しかしインキャには無理だ。もっとやり方があったかもしれん。てか学校休みまくったりするべきだったし。

進学校ならちゃんとしたプログラムが用意されているんだろうか知らんけど。

 

 

 

 

今思うと、もはや自称進学校ですらない底辺高校のくせになぜ一般受験を選んだのか。2年前の私の思考回路は謎だ。いや、さらに言うと中学三年生の時になぜこの高校を選んだのかだ。

中学三年生の頃は実は不純な理由である。

当時好きだった子がその学校を受けるのと、中学の奴らから距離を置きたかったからだ。

その好きな子は別の学校に行き、中学の奴らとは距離を置けたが私の人生はレールから足を一歩踏み外した。

 

人生のレールという言葉は嫌いである。あたかも生きる道が最初から決まっているかのように、それ以外の道が異端であるかのように仕向けさせるからだ。

 

話を戻そう。

2年前の私の心境についてだ。

進路調査みたいなやつを聞かれて、進学する一般受験でと答えたら教師どもから止められた。それが逆に私のやる気を加速させた気がする。

それと、就職するのが嫌だった。社会の歯車どころではない、今や人は社会の燃料だ。それになることが死ぬことよりも恐ろしく感じていた。

専門学校に行くというのも一つの手であったが、私の兄弟の一人の姉が美容師の専門学校に行く時親と学費で死ぬ程揉めたという記憶があり、それが足枷となった。

それとこの街から出たかった。思えば、高校の友人はみな上京してしまったな。

ここまで書いて行きたい理由に大学の魅力とかが一切思いついてなくてわろた。

所詮その程度の志しなのだろうな。

 

平日はクソみたいな学校に通い1日を終え、土日は図書館で暮らしていた。

 

ある日、図書館に行くと見覚えのある顔がちらほら居た。中学の時の同級生だった。彼らも受験のためにこの自習室に来ては勉強していたのだ。三年ぶりに会うのは良いことだ。話す会話は「あいつは今なにしてんだ?」とか「(中学の時のヤンキー女)が妊娠して堕ろしたらしいぞ」とか思い出話になる。俺はなぜこいつらと距離を取ろうとしたんだ。その結果が人より不利になり(ただでさえ不利なのに)辛い思いをしているのに。

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逃げた先も地獄でまた逃げた先も地獄だ。

もしかしたら、生きるとは『死ぬこと』から逃げ出してるだけに過ぎないかもしれない。死にたくないから生きている。逃げているとのなにも変わらないのではないのか?ならば、逃げないとは死ぬことと見つけたり。『葉隠』の「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」はこの境地に達して得たものではないのか。(俺的解釈)

自殺は辛い人生から逃げ出すことではなく、向き合ったからこそ逃げないと決めたからこそ自殺したのではないのか?

「死にたい」と連呼しながら生きているメンヘラどもは逃げているだけだ。死から。現実から。

 

 

 

環境が全てとは言わないが、一つの重要な要因として「環境」は存在している。そしてこの要因は私たち(学生)ではどうしようもない、変えることの難しいものだ。今から親をエリートにできるか?周りの生徒を変えられるか?学校のカリキュラムを変えられるか?

資本主義の原則に機会の平等というものがある。スタート地点から私は遅れていたのだ。