狂った世で気が狂うなら気は確かだ
今年見た邦画の中で圧倒的1位。
社会とは、日常とは如何に脆い基盤の上に成り立っているのか。
本当の自分とは何なのか。
この映画では人間が簡単に殺人を犯すようになる。
それは間宮による催眠術によるものだが、催眠術だけでひとの倫理観を取り外すことはできない。外すきっかけとなるべきモノが存在しなければならない。
間宮はそれを巧みに外していき、人間の心の仮面の下にあるドス黒い渦のようなものを現実に引きずり出す。
画像はライターの火を利用し催眠術をかける間宮
催眠術をかけ人を平気で殺人者にさせる間宮を追うのが主人公の刑事高部である。
これは私の考察だが、間宮と高部は同一存在に近いものなのではないだろうか。
というよりもお互いがお互いを必要としていたため巡り合うようになっていたのではないか。
高部は物語の冒頭において犯人が催眠術師なのではないかと思いつく。突然に。
本当にただの思いつきでそのような方法に辿り着くのだろうか。
また間宮も出会う人物が高部に近い存在になっていく。
高部の夫婦の関係性に近い夫婦、交番の警察官、医者。
これらは偶然なのか?
作中において心理学が物語の筋書きに重要な要素である。
心理学には学派が分かれているが(私は心理学専攻です)
作中において出てくるのはユング心理学である。
深層心理においては人は繋がっているというものだ。
お互いの深層心理が繋がり、そしてその状態を理解できる二人なのだから、まるで黄金律化のように物語が進んでいったのではないだろうか
しかし、追う者はいずれ追われる者と同化する。
いや主人公の高部が辿り着いた領域は間宮のを超えるほどのものだった。
間宮は自分自身が空っぽになったと語っている。邪教に出会い本当の自分にたどり着いた彼は自分が空っぽな存在であったことを知る。空虚な精神異常者なのは彼の態度や所作からも感じられる。
しかし高部は違った。それはラストシーン。間宮と同じ能力を開花させた彼はファミレスでウエイトレスに殺人衝動を解放させた。
このシーンは催眠術の儀式的な手法を使ってはいない。ライターも一回煙草に火をつけるのに使っただけで、水も利用していない。ウエイトレスとの会話もほとんどなし、にも関わらず高部はウエイトレスを解放させる催眠をかけた。
どうやって?
それは前述したようにユング心理学で考えるならば集合的無意識で深層心理は繋がっている。
彼は深層心理の最下層でウエイトレスに催眠をかけたのではないだろうか。
もしそうだとすれば彼は限りなく神に近い存在ともいえる。
作中では催眠術師を「伝道師」と表現している。知識を教え伝えるための。
元々の映画タイトルも「伝道師」だったらしい。
知識を教え伝えるのは次なる伝道師を目覚めさせるためであろう。
だが知識はいずれ元の場所に帰る。
人間に知識を与えたのは神なのだから。
それ以外にもラストシーンの高部が間宮と違うところは、間宮は催眠術を知り本当の自分の存在に気づき精神障害を負いまともな社会人としてはもう復帰できないところまで堕ちている。
だが高部は違う。その後も普通に警察の仕事をこなし、仕事の電話も対応している。
ファミレスで料理を完食できているのもその証左である。(間宮を追っているとき、妻の介護をしているときはストレスでまともにファミレスの食事を食べることができなった)
高部は本当の自分を知ったうえで社会というものを理解し渡り歩くためのペルソナすら持ち合わせることができる、本当の自分じゃない、偽物の自分すらも受け入れている。
間宮という自分にとっての影との対峙に勝利をおさめているからである。
今こそ見てもらいたい映画である。