人はなぜ生きるのだろうかという問いはナンセンスである。
「およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、人は沈黙せねばならない」
世界は成立している事柄の総体である。
世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。
世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべてであることによって規定されている。
なぜなら、事実の総体は、何が成立しているのかを規定すると同時に、何が成立していないのかをも規定するからである。
論理空間の中にある諸事実、それが世界である。
私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。
論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。
思考しえぬことをわれわれは思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことをわれわれは語ることもできない。
永遠の相のもとに世界を捉えるとは世界を全体として限界づけられた全体としてとらえる事にほかならない。
答えが言い表しえないならば、問いを言い表すこともできない。
謎は存在しない
問いが建てられうるのならば、答えもまた与えられうる。
問いと答えが成り立つのは語られうるところでしかない。
可能な科学の問いがすべて答えられたとしても、生の問題は依然としてのこるだろう。
生の問題の解決をひとは問題の消滅によって気づく。
意志が世界を変化させるとき、変わるのは世界の限界であり事実ではない。
死は人生の出来事ではない。ひとは死を体験しない。
時間と空間のうちにある生の謎の解決は、時間と空間の外にある。
言語と現実はもはや分離した二つの実体としてみなすことはできない。言語は現実の中にあるし、現実それ自体は言語を通して初めて理解される。
言葉はもはや外部の「現実」を映し出すただの忠実な「鏡」ではない。
そこで紡がれる言葉そのものが一つの世界を織りなし、「現実」を変えていく力をもちうる。
世界は事実の総体であり、対象の組み合わせたる事実はさまざまに変化しうるが、そうした諸可能性の礎石たる対象は変化しない。ここに、世界は「永遠の相のもとに」姿を現す。
世界の可能性の礎石である対象は私の経験の範囲にある。ここから世界は「私の世界」として現れる。
私の世界は「生きる意志」に満たされねばならない。
事実を経験し、そこからさまざまな思考へと飛躍してくだけではなく、その世界を積極的に引きうけていこうとする、その意志である。
どのような世界であれ、生きる意志に満たされうる。
そしてどのような世界であれ生きる意志を失いうる。
前者が幸福な生であり、後者が不幸な生である。
幸福に生きよ!、ということより以上は語りえない。