三月生まれの生存戦略

Twitterで言えないこと書きます。3月生まれで苦しむ子羊たちの先導者になります。

あぅ

我々の人生の情景は粗いモザイクの絵に似ている。この絵を美しいと見るためには、それから遠く離れている必要があるため、間近にいてはそれは何の印象をも与えない。それと同じ道理で、何らかしらあこがれていたものを手に入れることは、それをむなしいと悟ることである。こうして我々はいつもより良いものを待ち望んで生きている。そうかと思うと我々はまた、しばしば過ぎ去ったものへの悔いを交えた憧れのうちに生きている。ところが目前にあるものについては、ただ一寸の間それを我慢するといったような風で、それに対しては目標に達するための道程というだけの意味しか与えられていない。こういう次第であるから、たいていの人たちは、晩年に及んでおのが生涯を振り返ってみた場合、自分は自分の全生涯を全くゆきあたりばったりに生きてきてしまったのだという風に感ずるようになるであろう。そうして、自分があんなにも無造作に味わいもせずに通り過ごしたものこそ、実は自分の生命だったのであり、それこそ自分がそれを待ち望んで生きてきた当のものにほかならなかったことを知って、怪しみいぶかることであろう。このようにして、通例、人間の生涯とは、希望に欺かれて死のかいなにとびこむ、というほかにないのである。

それにまた、個体的意思は飽くことを知らない、という事情が加わってくる。そのこと故に、あらゆる満足はまた別の新しい願望を生み出してくるのであり、意志の欲求は永遠に充たされないまま果てしなく続いてゆく。

ところでもともとそのことは、意志が、それ自体において、世界の主であるという事情にもとづいている。万有が意思のものなのであってみれば、それの如何なる部分も意思を満足せしめうるはずはないので、ただ全体のみがそれをなしうるのであるが、この全体たるや無限である。

それにしても、世界の主たるこの意思が、それの個体的な現象においては、如何にみすぼらしいものになるかということを目撃する場合、我々としても同情の念を抑えるわけにはいかない。というのは、この意思はそれの個体的な現象においては、たいていの場合、個体的な肉体を支えるにちょうど間に合う程度のものと化するのである。ここに意志の深い欺きがある。